私の心がつぶされたようだ

蜘蛛をつぶした私に、どうしようもない虚しさがこみ上げ、淀んで漂い続ける。コバエをバチバチと殺してきた私が、見紛いころした一匹の蜘蛛。命の価値は平等ではなく、選定するものがその価値を決める。虚しさの理由を見つけ、また絶望的な虚無感に襲われている。

蜘蛛を叩き潰した。

最近家の中に沸いているのか、コバエが多く飛んでいて煩わしい思いで過ごしていたが、ついに今日、4匹目を仕留めて恐らく全滅させたという頃合いだ。

そしてついさっき、洗い物をしていたときにシンク上の蛍光灯のそばに黒い影を見つけ、条件反射のように両の手のひらで思い切り挟んで叩いた。
それが蜘蛛だった。

叩いた直後、開いた手のひらには、小さいながら八本の足が確かにあった。

少しあっけにとられたままティッシュで拭い、それからまたその痕跡を見つめる。

「殺してしまった」

日ごろ蜘蛛を殺さずに、家の中にいても見過ごしていた私は、大罪を犯した気分に飲み込まれていた。
悲しくはない。
しかしショックと、そして大きな虚しさが今これを書いている最中にも残っている。

虚しい

これは私がなぜか守ってきた、「蜘蛛は殺さない」というポリシーに反したせいか。

「朝蜘は殺すな、夜蜘は殺せ」という慣習があるが、倣っているわけではない。
そもそも私は朝も夜も殺さない。
蜘蛛には身近なことと、害虫駆除という大役を担うのを知っていることとで愛着がある。

その愛着のあるものを殺してしまった、そして築き上げてきたポリシーを破ってしまった。
理由は断定できず、虚しさが胸に色濃くもやをかける。

ひいき

すでに書いたように、この数日、私はコバエに翻弄され、憎み、4匹をせん滅した。
コバエへの殺意は一瞬だけだ。

これまで生きてきたなかで殺したGにいたっては、すべてオーバーキルで、見るも無残な死を遂げさせた。

なぜ蜘蛛だけが許されるのか。

ありていに言えば、「命は平等に扱われるべき」ではないのか。
牛や豚は食べるために殺されるのをよしとして、犬肉の食文化に異を唱えるのはなぜか。

それはすべて「弱肉強食」という言葉で片がつく。

蜘蛛やコバエ、Gの命の選定は私に委される。
なにを殺して食べるのか、それは食らうものに委される。

私は愛犬ぺたりを食べない。
犬肉の食文化もできればなくなってほしい。

培養肉が発展すれば、動物の肉を食べようとは思わない。
でも今は食べる。
とくになにも考えず、考えるエネルギーも使わず、加工された肉を買って調理し、食べる。

虚しくも、私は選定者だ

ただ、命を尊ぶことはできる。
生きていたときの姿を思い浮かべながら感謝して食べる。
ほかにするべきことがわからないので感謝をする。

つぶした蜘蛛はゴミ箱に捨てるのは避け、ティッシュに包んだままビニール袋に入れて玄関に置いた。
次のゴミ回収の日には他のゴミと一緒にして、ゴミとして出す。

本当は土に埋めたいが、拭ったときにほとんど塵のようになってしまった。

ゴミの日までは、出かけるときに見て思い出すことになる。
今のこの気持ちを。
そしてそのときになれば、やはりゴミとして出す。
それからは、つぶした蜘蛛やこの気持ちを、ふと思い出すこともあるかもしれない。

しかしまた家に蜘蛛が現れて、そのとき私はなにを思うだろうか。

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