オリジナル小説『8月31日の夜に』⑥

『柳に風』

 『柳に風』

 著者名の下に、小さく、それだけが書かれていた。柳に風。柳の枝が風に吹かれるままなびくように、なにごとにも逆らわず身を委ねるという意味の慣用句。

 ぼくは全身の毛穴が一気に広がるのを感じた。メモを落としたかもしれないと思ったときとはまた違うベクトルの、胸の奥、心臓を中心にして、全身の血がたぎりながら勢いよく流れるような。それは一瞬にして芽生えた怒りを燃料とした。

 許嫁がいて、嫁ぐから学校を辞めさせられる。今この時代に、そんな理不尽なことがあっていいのか。ぼくは自分でも不思議なほど憤っていた。知らないうちにA子をアイドル化していた自分がいて、どこぞの馬の骨がさらっていくのを許せないのだろうか。さらに妄想は膨らんで、ことを結論付けようとする。ひょっとして、A子は一縷の望みをかけ、ぼくに助けを求めてきたのではないか。

 そう思うのと同時に、新しくA子への怒りが芽生えるのも感じた。ただ一方的に想いを吐露され、衝撃的な身の上を報され、別れを告げられて、さようならお幸せにと済ませられるわけがない。返事する余地を与えないなんて卑怯だとも思う。ぼくは訊きたい。手紙に書かれていることは本当なのか。A子は納得しているのか。後悔はないのか。そして、手紙はラブレターなのか。ぼくのことを好きなのか。そうだとしたら、どうして。

 ぼくの感情は水脈を掘り当てたかのようにあふれ出て止められなくなっていた。

 今メールを出したところで返事は来ない気がする。それにメールの速度では、頭からはじけ出る勢いの疑問の群れが我慢できるとは思えない。一方で、どうにかして番号を手に入れ、電話をかけることができたとしても、A子が出ることはないだろうと直感していた。手紙の文面からは、今までの生活や人づきあいをバッサリと切り捨てようとするA子の覚悟が見える。一番の近道は、A子の家に電話するか、最終的には直接家を訪ねるか。

 誰に訊けば、スムーズにA子と話せるだろうか。メルアドも知らなかったぼくが、家の電話番号や住所を知るはずがない。仲介してきた一郎に訊く手もあるが、A子の情報を知っている確証はないし、もし知っていたとしても、無条件でぼくに教える理由が思いつかない。なによりA子からの手紙を誰かと共有したくなかったし、A子だってされたくないはずだ。

 シャワーを浴びた意味をなくすほどの汗をかきながら、ぼくは机に突っ伏して頭を抱えていた。A子の手紙がリフレインする。

 『きみのことは小学生のころから気になっていて』

 A子を知ったのは高校が初めてだと思っていたが、これは記憶違いだったのか。瞬間、ぼくは顔を上げ、すぐ横に立つ本棚の戸に手を伸ばした。

※noteの『#8月31日の夜に』に着想を得た作品です。
※気まぐれに加筆・修正・有料記事化する場合があります。

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